東京高等裁判所 昭和38年(ネ)611号 判決 1968年1月30日
控訴人(被告)
芦田鶴子
外一名
代理人
薄根正男
外二名
被控訴人(原告)
秀吉魁
代理人
馬越旺輔
外二名
主文
原判決中控訴人ら敗訴の部分を取り消す。
被控訴人の請求を棄却する。
訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。
事実
控訴代理人は、主文第一、二項と同旨の判決ならびに控訴人ら敗訴の判決がなされる場合には、仮執行免脱の宣言を求める、と述べ、被控訴代理人は、「原判決を変更する。一控訴人芹田は被控訴人に対し別紙物件目録記載第一、第二の建物部分を明け渡せ、二、控訴人らは連帯して被控訴人に対し金一、七七五万五、〇〇〇円を支払え」との判決ならびに右一、二につき仮執行の宣言を求めた。
当事者双方の事実上の主張、証拠の提出、援用及び認否<省略>
理由
一被控訴人が請求原因第一において主張する内容の条項で、昭和三五年一二月二二日調停が成立し、その旨の調書(甲第一号証)が作成されたことは当事者間に争いがない。「証拠」によれば、右調停において被控訴人が控訴人芦田に追加賃貸することとなつた別紙目録第二記載の部分については、控訴人芦田は、坪当り五〇万円の割合で合計金一、二五〇万円を被控訴人に支払うことを承諾したが、被控訴人の希望を容れ、内金三〇〇万円は礼金として調書に記載しないこととし、残金九五〇万円を、敷金として、これを同調書記載のとおり合割払いすることを互に諒解した上で、調停が成立するにいたつたこと、控訴人芦田は同日礼金三〇〇万円及び敷金の内金一〇〇万円を、昭和三六年一月三〇日残りの敷金の内金一〇〇万円を各支払い、被控訴人は目録第二の部分を約定どおり芦田に引き渡したことが認められる。したがつて、右調書の記載は事実に合わない虚偽表示で無効であるとの控訴人の主張は、採用し難い。
二<証拠>ならびに弁論の全趣旨を綜合すると、次の事実関係を認めることができる。
(一) 本件建物は、昭和二〇年の空襲に際し直撃弾をうけ、さらに焼夷弾のため火災に遭い、被害を受けていたが、終戦直後ヘルムート・ケテルは、その子控訴人芦田鶴子の名義で、本件建物を管理していた中島伴六の仲介により被控訴人から、別紙目録第一及び第二の部分を賃借し、自ら改修して、やがて「ケテルスレストラン」の営業をはじめた。昭和二一年秋頃門林某なる者が第二の部分につき賃借権を有すると主張し、いやがらせるするため、芦田およびヘルムートは致方なくこれを同人に明け渡し、さらに昭和二三年には蔡明裕が本件建物を買い受けたとし、所有権取得登記をした上第一の部分についても明渡を求めて来たが、昭和二四年六月二六日被控訴人と控訴人芦田との間に、「被控訴人は蔡から本件建物を買い戻し、地階全部及び一階の半分すなわち別紙目録第一の部分の賃貸を継続すること、改造は芦田において自由になしうること、目録第二の部分については、門林が明け渡したときは芦田に優先的に賃貸すること、芦田は被控訴人が蔡から本件建物を買い戻すにつき助成金として一〇〇万円を被控訴人に贈与すること」とする「借室権設定契約」(乙第一号証)が成立し、右一〇〇万円の贈与が履行された結果、同年七月一六日本件建物についての蔡の所有権取得登記が抹消されて被控訴人はその所有権を回復した。昭和三一、二年頃になつて門林は第二の部分を明け渡したが、被控訴人はこの部分をその子弘章に使用せしめて、さきの「借室権設定契約」における約定を履行しなかつた。「ケテルスレストラン」の営業名義は、昭和二七年控訴人芦田からヘルムートケテルに変つた。本件調停は、被控訴人からヘルムートに対し提起された明渡訴訟(東京地方裁判所昭和三〇年(ワ)第九、一四六号)の係属中成立にいたつたもので、それまでの交渉の段階においては、ヘルムート及びその代理人井上弁護士は、被控訴人側の前記坪当り五〇万円の要求に反対であつたが、控訴人芦田は被控訴人との間の悶着を解消し、営業の継続を望むところから、無理を忍んで、要求を呑んだのである。
(二) 本件調停の成立後間もなく昭和三五年一二月二六日控訴人らの母芦田よ弥が、次いで昭和三六年一月一四日父ヘルムート・ケテルが死亡した。控訴人芦田は、同年三月三一日に支払うべき敷金の残金七五〇万円を、本件建物の敷地に隣接する自己所有の土地を担保として金員を借用する予定でいたが、その地上にはヘルムート名義の建物があり、両者を一括してでないと銀行は担保権設定に応じてくれなかつた。ヘルムートはドイツ国籍を有していたため、控訴人らは父の死後直ちに相続手続を弁護士ローランド・ゾンデルホフに依頼したが、ドイツ・ベルリン・シエーネベルク区裁判所の共同相続証明書は、控訴人らの予期に反して著しく遅れ、翌三七年一月二日に漸く発せられた。控訴人芦田は、弟フーゴ・ケテル所有の物件を担保に提供を受け、内金二五〇万円を調えたが、残金は、相続手続が昭和三六年三月末日の期日までにはとうてい完了する見込がないことがわかつたため、他につてを求めねばならず、したがつて期日には全額の金策の都合がつきかねることになつたので、三月中旬頃辻下忠市は、被控訴人の子弘章に会つてその旨を伝え、二一日には、吉兼円治郎が中島伴六にその旨を話したが、同人からは一週間や一〇日位遅れても、その位は被控訴人が待つてくれるだろうという返答をえた。さらに、同月三〇日の夕刻には芹田が自ら弘章に会い事情を話したところ、同人もよく話がわかり家族の者に伝えると約束してくれた。以上の次第で、被控訴人自身も三月三一日以前に芦田の方が父母の死亡のため全額の金策が間に合わぬことにつき弁明のあつたことを知つていたものと認められる<証拠>参照)
(三) 昭和三六年三月三一日辻下は控訴人芦田の依頼をうけて被控訴人方を訪ね、その娘慶子に会い、二五〇万円を提供したが、受領を拒絶され、被控訴人は葉山の別荘に行つているとのことであつたので、翌朝その別荘を訪ねたけれども、箱根に行つていて会えず、同人は同日と翌二日に箱根を探して廻つたが、ついに被控訴人に会うことができなかつた。四月三日夕刻被控訴人の代理人森本弁護士は、「ケテルスレストラン」に来り、辻下が応対に出て、二五〇万円は調達できたが、あとは間に会わない旨告げたところ、森本は即座に契約を解除すると申し入れ、芦田には会わずに辞去し、芦田はその旨を辻下から聞いた。翌四日朝には辻下が、夕刻には芦田が辻下とともに被控訴人方に赴き、遅れた理由を告げ、さらに五日には芦田は間もなく金はできる、支払が遅れたのは申し訳ないが今少し待つて欲しいと頼んだ。そして、金策に奔走した結果、同月一〇に漸く全額を調達することができたので、控訴人芦田には中島伴六と共に被控訴人方を訪れ、七五〇万円を現実に提供したが、受領を拒まれたため、翌一一日右金額を供託した。なお、四月分の賃料は同月二八日吉兼と野村弁護士が被控訴人の事務所に持参し提供したが、これも受領を拒絶され、五月一五日供託した。
(四) 控訴人芦田は、敷金残額七五〇万円の調達に怠慢であつたのではなく、鋭意金策に努力したが、父の死という予期しない出来事と、父がドイツ国籍であつたため、相続手続にひまどり、予定の金策に狂いを来したことにより、期日にその全額の支払ができなかつたものである。
(五) 控訴人芦田またはヘルムート・ケテルは、約定賃料の支払を怠つたことはなく、前記のごとく、爆撃により破損した個所を自ら改修したし、門林某または蔡明裕のために賃借部分について明渡を要求され、門林には、一部を明け渡し、蔡のためには、一〇〇万円を被控訴人に贈与したが、これらはいずれも被控訴人の二重賃貸ないしいわば無責任な売買に因るものであつて、そのために、控訴人芦田は相当な被害を受けたものと認められる。
<証拠>中以上の認定に牴触する部分は、これを信用しない。
三以上認定の経緯に照らして考えるに本件調停に際し、被控訴人が目録第二の部分の追加賃貸をなすに当り、さきの「借室権設定契約」ないし前記諸事情に目を蔽い、坪当り五〇万円の金員を要求し、結局控訴人らをして三〇〇万円を礼金九五〇万円を敷金として支払うことを約せしめたのは、被控訴人側にその子弘章の事業のため、差し迫つて相当額の金員を必要とする事情があつたとは云え、(この事実は<証拠>から窺われる。)、敷金として通常授受されるところをはるかに越えた過大なものであり、不当な要求であつたというを妨げない。しかも、前示の事実関係によれば、被控訴人は、控訴人芦田が調停成立後父をうしない、予定の金策に手違いの生じたこと―いわば事情の変更があつたこと―を知つていたと認められるのであるから、被控訴人としては、約定敷金残額の調達が期日に間に合わなかつたとしても、暫時猶予を与え、よく話し合つて、お互に納得のゆく手段を講じてこそ、信義に沿うと云えるのである。しかるに、被控訴人は、わずか三日の遅滞により、前記調停条項第九項の特約があるのに乗じて、賃貸借解除の挙に出でた。もつとも、前示四月三日当日森本弁護士と応対した辻下は、残額五〇〇万円について、それぞれ金額二五〇万円、満期を同年四月末日及び五月末日とする約束手形で支払うことを許容されたいと申し出たことが証拠上認められるが、辻下が「ケテルスレストラン」の支配人格であつたのは昭和二四年頃までであつて、その後は、控訴人芦田とは直接の関係はなかつたのであり(辻下の供述による)右四月三日当時芦田の代理人であつたことについては確認がない。しかも辻下の原審における第二回の供述によれば、右の発言は、あくまでも、その一存でしたにすぎなかつたのであるから、森本弁護士としては、控訴人芦田に面会して、意のあるところを問い正すべきであつたのであり、同弁護士が辻下の言をそのまま信じたとすれば、早計であつたというほかはない。当裁判所は、敷金の性質について、控訴人の当審における(三)(ロ)の見解を採らず、被控訴人の(五)の見解に組するが、しかもなお、敷金は、賃貸借の要素ではないことを忘れてはならない。
控訴人芦田が七五〇万円の調達に手違いを生ずるにいたつた前示二、(二)、(三)、(四)の事情、被控訴人がこれを知つていたとみとめられること(前示(二))、前示(五)で判示した事情、右金員の要求が過大であり、しかも、それが賃貸借の要素ではない敷金についてであつたこと等前記諸般の状況を考えると、被控訴人の代理人森本弁護士によつてなされた賃貸借解除の意思表示は、賃貸人に要求される信義に従い誠実になすべき権利の行使を逸脱したものといわざるをえない。控訴人の権利の濫用の抗弁は、その理由があるというべきである(ちなみに云う。控訴人は、民法一条三項の適用を主張するが、われわれは同条二項の適用による方がより正確であると考える。しかし、右二項と三項は、表現の形式が異なるだけで、内容は同一に帰着するのであり、控訴人の主張自体に右二項の趣旨を含んでいるとも見られるから、本件において、控訴人の主張を採用することに、差し障りはない。)
四以上において判示したとおりであるから、その余の判断をなすまでもなく、被控訴人の貸室明渡の請求は理由がないものとして排斥せざるをえない。また、昭和三六年四月一日から三日までの賃料請求は、控訴人芦田が適法に提供し、これを供託していること前判示のとおりであるから、この点の請求も理由がなく、損害金の請求の理由がないことは云うまでもない。よつて、被控訴人の請求を一部認容した原判決は失当であつて、民訴法三八六条により、被控訴人勝訴の部分を取り消し、被控訴人の請求を棄却すべく、訴訟費用の負担につき、同法九六条、八九条を適用し、主文のとおり判決する。(三淵乾太郎 伊藤顕信 村岡二郎)
物件目録
東京都中央区銀座西五丁目五番地の八
一、鉄筋コンクリート造陸屋根五階建店舗
一棟
建坪 五〇坪一合五勺(165.78平万メートル)
二階 五〇坪一合五勺(165.78平方メートル)
三階 五〇坪一合五勺(165.78平方メートル)
四階 五〇坪一合五勺(165.78平方メートル)
五階 三〇坪(99.17平方メートル)
地階 五五坪一合八勺(182.41平方メートル)
の内
第一、地階全部及び一階五〇坪一合五勺(165.78平方メートル)のうち、別紙添付図面表示赤斜線部分二〇坪五合三勺(67.86平万メートル)。
第二、一階五〇坪一合五勺(165.78平方メートル)のうち、別紙添付図面表示青斜線部分二五坪(82.64平方メートル)。
添付図面<省略>